俳優の責任
- 2015/12/12
- 02:30
と言うものはあまり問われない ものだと感じている。
劇評が載った場合も、語られるのは演出あるいは戯曲の方が多い。
何故なのかと考えると演技と言うものは、個人的資質の中に昇華されてゆくことが多いから、非常に
語りにくいのだろうと思う。良い悪い 好き嫌いの二値的判断になりやすいのだ。
俳優の身体的表現が観るものの生理的感覚や感情を呼び起こす としたらなおさらそれは語りにくいだろう。
俳優について語ろうとすると、「人間存在」について語らねばならないのではないかと思っている。
では何に責任を持つのか。それは「言葉」だと感じている。
劇評が載った場合も、語られるのは演出あるいは戯曲の方が多い。
何故なのかと考えると演技と言うものは、個人的資質の中に昇華されてゆくことが多いから、非常に
語りにくいのだろうと思う。良い悪い 好き嫌いの二値的判断になりやすいのだ。
俳優の身体的表現が観るものの生理的感覚や感情を呼び起こす としたらなおさらそれは語りにくいだろう。
俳優について語ろうとすると、「人間存在」について語らねばならないのではないかと思っている。
では何に責任を持つのか。それは「言葉」だと感じている。
スポンサーサイト